「さよーならまたいつか」
朝ドラはずっと前から録画して観ていて、時間短縮のため主題歌は早送りをします。
大好きな桑田佳祐さんが主題歌を歌った『ひよっこ』の時さえも、私は時間短縮を優先していました。
歌はYouTubeとか、聴くチャンスはいくらでもあると思っていました。
だけど、今回の『虎の翼』の主題歌『さよーならまたいつか!』は早送りができません。
毎回全部聴いて、聴きながら何となく涙が出ます。
そしてドラマを観ながら、なぜかまた涙が自然に出てきます。
何故なんでしょう?
私は父が40歳を過ぎてからの子どもで、父は大正生まれでした。
しかも大正デモクラシーなどとは全く関係もない、恐らくものすごい田舎の貧しい家庭に育った人だったのだと思います。
正直、父が生きていた時に話をしたことが一度もないので、あまり深くは知りません。
父は「女に勉強は必要ない」と心から信じていたようで、私たち姉妹が家で勉強することをよく思っていませんでした。
高校進学さえ、本当に必要なのかと思っていたみたいでした。だから大学に進学したいなどということは、口が裂けても言えない環境に育ちました。
そして以前にも書いたことがありますが、将来は看護師になりたいと言った時には本当に何度も殴られました。
「女が手に職なんか付けたら将来は不幸になるに決まっている」と本気で信じていたようで、女性の幸せは結婚して主婦になることだと心から思っていたみたいです。
全く、どこまで時代錯誤の人だったのだろうと未だに思います。
26歳で結婚を決意した時、相手の人(旦那くん)は精神科の研修医をしていました。
私も精神科の看護師として生きていきたいと思っていて、そのために名古屋から単身上京したのに職場は私に外科外来への移動を命じました。
職場から見ると、私が精神科看護の道を諦めるのは当然のことだったのだと思います。
男性か女性かということ以前に医者と看護師、どっちが人数が多いの???という話だったと思いますが。
でもなぜ私が諦めなくてはいけなかったのか、なぜ旦那くんは諦めなくても良かったのか、あの時のモヤモヤした気持ちはずっと私の中に燻っています。
旦那くんは大学を卒業した時、一番なりたいと思ったのは精神科医、二番目に小児科医だと言っていました。
旦那くんにも違う人生を考える余地がなかったわけではありません。
が、違う人生の選択を強いられたのは私だけでした。
私はあの時、これから自分はどうやって生きていったら良いのかと路頭に迷いました。
そもそも、滅茶苦茶不器用な私に外科外来なんて務まるはずがありません。
その後の自分を探すのに、10年近い時間が必要でした。
だけどあの時私の口から「はて?」という言葉が出ることはなく、心の中にあったのは「スン」でした。
それでも訪問看護という仕事と出会い、働き甲斐のある仕事、自己実現できる仕事と巡り会えたことは幸せだったのだと思います。
看護師という仕事は、他の仕事よりは「女だから」「女には任せられない」「女のくせに」という言葉とは遠い位置にあったとは思います。
むしろ女性性と科学とが上手く結びついた仕事だとも思いますし、そういう世界で生きてきたことは恐らく幸せなんだと思います。
それでも、これは今にも続いていることですが、旦那くんはどんなに早く帰ってこようが遅く帰ってこようが家に着くとまずはビールのタブを外してプシュッと一杯を始める・・・。
そして私はどんなに早く帰ろうが遅く帰ろうが、まずは冷蔵庫を開けて晩ごはんを作り始める・・・。
これまで「はて?」という言葉は何度も何度も口にもしたし飲み込みもしましたが、今の自分の心の中にあるのは「スン」です。
断っておきますが、うちの旦那くんはどうしようもない女性蔑視の人手はなく、普通。むしろ分別のあるタイプの人だと思います。
それでも女性の「はて?」という気持ちには気付かないのだと思います。
男性中心の社会の中で育ってきたから。
「もしも私に翼があれば 願うたびに悲しみに暮れた」
「土砂降りでも構わず飛んでく その力が欲しかった」
「口の中はたと血がにじんで 空に唾を吐く」
「したり顔で触らないで 背中を殴りつける的外れ」
「人がのたまう地獄の先にこそ私は春を見る」
「繋がれてた縄を握りしめて しかと噛み千切る」
「産まれた日から私でいたんだ 知らなかっただろ」
一つ一つの歌詞が、グッと胸に沁みます。
米津玄師さん、すごいなぁ。