「差別のない未来が見たい」~ミャンマー、立ち上がる市民たちより

2021年04月20日

4月3日、NHKのEYV特集で報道された『ミャンマー、立ち上がる市民たち』を観ました。ピースボートのon-line企画で学んだ「ミャンマー:軍政と戦う人々~その声を聞く~」と合わせて、ミャンマーで今何が起きているのか、なぜこんなことが起きているのかを深く学ぶことができました。

分断の歴史

ミャンマーの人口は5400万人。ミャンマーを中心に円を描けば、世界の人口の半分がそこに入ります。天然資源も豊富で、アジアの中心に位置する国です。
かつてミャンマーはイギリスの植民地でした。
当時のイギリスはキリスト教に改宗した少数民族を優遇し、ビルマ人との対立を煽り、分断統治をおこなってきました。その対立の構図が、今なおミャンマーに多大な影響を与えています。 
ミャンマーの人口の7割を占めるのは、ビルマ人です。残りの3割は少数民族で、135にも上る少数民族がミャンマーで暮らしています。数十を超える異なる言語・人種・宗教があり、単一のアイデンティティを持ちえない・・・、それがミャンマーという国だということです。

3月27日、国軍記念日

日本は、ビルマ(ミャンマー)建国の父アウン・サン将軍(スーチー氏の父)と『30人の志士』(後の国軍のルーツ)に対し秘密の軍事訓練を施し、ビルマ義勇軍を誕生させました。義勇軍は独立を目指して日本軍とともにイギリスと戦い、イギリスを駆逐しました。
しかしその後日本が軍政を敷き、ビルマを統治してしまいました。
真の独立を目指していたアウン・サン氏たちは不満を募らせ、1945年3月27日に蜂起しました。それが「国軍記念日」です。

1948年、ビルマは独立を勝ち取りました。

国軍の台頭

独立直後から政府を悩ませたのは、少数民族との関係でした。少数民族は自治・独立を求め、武装闘争を始めていきました。軍部は少数民族を「国の安全を脅かす敵」と位置づけ、闘い続けてきました。また、闘い続けることで国の守護者としての正当性を維持してきました。
1962年には『30人の志士』の一人であったネ・ウィン氏がクーデターを起こし、独裁的社会主義路線を敷きました。

軍事政権の下で経済は停滞し、ビルマはアジアで最も貧しい国の一つになっていきました。

極めて特殊な軍隊

ミャンマーの国軍は、第二次世界大戦以降も絶え間なく戦い続けてきた、世界で唯一の軍隊です。70年以上にわたり国内で武力紛争が続く中で、国軍は巨大な軍事機構として発展してきただけでなく、自国民に対してもその存在理由を正当化することができ、他とは異なる独自のメンタリティを形成してきました。軍の指導者たちはミャンマーしか知りません。
閉じた空間の中で、独特な使命感や自己が形成されてきました。

国軍とスーチー氏との確執

1988年、ビルマに民主化運動が起こりました。
当時スーチー氏はイギリスで暮らしていましたが、たまたま母親の介護のためにミャンマーに帰国していました。そしてそこで、ミャンマーの人々から絶大な期待を集めていきました。
この民主化運動で数千人の市民が犠牲となり、スーチー氏もその後20年にわたり自宅軟禁を余儀なくされました。
この翌年、ビルマは国際表記をミャンマーと変えました。

2011年、大統領に就任したテイン・セイン氏は国軍への国際社会からの批判をかわすために、民政への移管を表明しました。スーチー氏は自宅軟禁を解かれ、国政に参加し、存在感を増していきました。

2008年、ミャンマーは国民投票による憲法を制定しました。
この憲法には外国籍の家族を持つものは大統領にはなれないことが盛り込まれ、夫がイギリス人のスーチー氏は大統領になれないようにされていました。また、国会議員の議席の4分の1を軍人に割り当て、軍の政治への影響力を担保していました。
軍が目指していたのは軍と文民によるバランスの良い統治であり、国防・内務など治安に対する権力は軍が独占できるように考えていました。

2016年、スーチー氏は国家顧問(実質的な最高権力者)に就任しました。また、昨年11月の総選挙では、憲法改正を悲願とするスーチー氏が率いる国民民主連盟(NLD)gが圧勝しました。

なぜクーデターは起きたのか

この10年、ミャンマーは「アジア最後のフロンティア」と呼ばれ、経済発展を続けてきました。その発展の裏で、軍は「支配権を失うかもしれない」という大きな不安を募らせてきました。昨年11月の選挙でその不安をさらに募らせた軍部は、選挙の不正を訴えてクーデターを起こしました。
軍はクーデターを局所的な作戦ととらえていたようです。国民はこれを受け容れ、1年後に選挙をやり直せば、(軍にとって)良い結果が出ると考えていたようです。

「我々の一票を尊重しろ!」

しかし事態は、軍部が考えたような都合の良いものとはなりませんでした。
多くの市民が、不服従運動に立ち上がりました。デモやストライキにより、軍による統治を不可能にすることを市民は目指しています。中心となる組織はありません。みんな、自分の意志で行動しています。求めているのは「我々の一票を尊重しろ」ということであり、昨年11月の選挙で選ばれた国会議員による政治です。
全ての市民が非常に自立し、団結しています。

二つの大きな課題

ミャンマーには二つの大きな課題があります。
一つは「ミャンマー人とは誰を指すのか?」という問題です。イスラム教徒のロヒンギャはミャンマーに属するのか、少数民族が平等の権利を与えられているのか、差別を受けていないのかという問題です。
今回のデモには少数民族も参加しています。「差別のない、未来が見たい」と。

またもう一つの問題は貧困です。
コロナ禍で貧困層は3倍増え、全人口の約6割が1日2ドルに満たない収入で暮らしています。何千もの人々が、絶望的な生活レベルにいます。大抵の人が借金を抱え、法外な利子を支払わされています。

基本的な生存権さえ脅かされる、ミャンマー。搾取されない経済的自由を与えてくれる政府、保健・教育・生活の基盤となるインフラなど、基本的なサービスを与えてくれる国を多くのミャンマーの人々が求めています。

日本の公的資金は国軍支援に遣われていないのか?

先日もお伝えしましたが、日本の対ミャンマーODA、2018年度まで有償資金協力1兆1,368億円、無償資金協力3229.62億円、技術協力984.16億円。2019年度の日本対ミャンマーODAは1,688億円、無償協力は138億円、技術協力66億円です。
その中で、ミャンマー最大都市ヤンゴンの軍事博物館跡地を利用してつくられようとしている、日系企業による大規模複合施設の賃料が国軍に支払われたのではないかとの疑念が生じています。
軍事博物館跡地の持ち主は国軍で、賃料の支払いも国防口座。にもかかわらず、ミャンマーの国防予算にも一般会計予算にも賃料の記載がないそうです。今、事実調査を求めているそうです。
日本の公的資金が国軍に流れ、ミャンマー市民を殺戮するために遣われているとしたら大変なことだと思います。
しっかりと調査をして、万が一国軍に流れているのならば直ちに止めるような、しっかりとした対応を求めたいと思います。