『国に棄てられるということ』
今年最初に読んだ本は岩波ブックレットNo.666『国に棄てられるということ 「中国残留婦人」はなぜ国を訴えたか』です。
終戦直前の8月9日突如ソ連が参戦し、旧満州に侵攻。
混乱する旧満州に置き去りにされ、長い間帰国を願いつつも帰国できなかった人々。その中でも、敗戦時に13歳に達していた人々は「判断能力があり、自分の意思で残った」のだと判断されてきました。その方々は「中国残留婦人」として、国は「中国残留孤児」とは分けて考えてきました。その結果、帰国の望みに対しても、帰国後の生活に対しても政府は積極的に手を差し伸べようとはしてきませんでした。
こうした扱いを受けてきた3人の女性が、2001年に国を相手に裁判を起こしました。
この本は3人の女性の物語であり、また満州移民政策とは何だったのか、なぜ多くの女性が中国に残らざるを得なかったのか、そして帰国を阻んだのは何だったのか・・・。こうした問題について、とても分かりやすく解説してくれています。
敗戦時に満州に住んでいた日本人は約155万人。そのうちの2割、27万人が開拓団関係者だったそうです。
開拓団関係者の死者数は78,500人とされていて、死者全体の45%にも上り、関係者の3人に一人が亡くなっているそうです。死亡者のうち戦死または自決が11,520人、不明11,000人。不明のうち死亡処理とみられるものが6,500人、生存見込み4,500人で、そのほとんど全員が女性と子どもだということがわかっているそうです。
満州移民政策とはなんだったのか?
「満州事変」(1931年)直後から日本の敗戦まで、満州農業移民政策の主導権を握っていたのは関東軍でした。満州に日本人の人口を増やし、民族移動をして中国人から土地を取り上げ、そこにに「日本的秩序」を打ち建てようとしたのでした。
当時の日本は第一次大戦後の長期不況に続くアメリカの世界恐慌の大波に飲み込まれ、都市も農村も深刻な経済不況に襲われていました。輸出産業の花形、生糸の価格の暴落。さらにはコメの大豊作で米価が暴落、なおかつ31年と34年に東北地方を中心に冷害に襲われ、コメの大凶作、蚕の餌の桑の葉まで全滅状態になったそうです。
こうした状況を背景に、1936年、広田広毅内閣は「満州農業移民20か年100万戸送出計画」をスタートさせたのでした。
満州に行ったきっかけは「役場の人から勧められたから」という人が多く、国策として道府県へ、そこから町村へと割り当てられた人数を町役場がまとめていたそうです。
驚いたことは、敗戦色が色濃くなった1945年の6月になっても満州への移民が送られ続けていたということでした。
国策に従うことは、強い強制力を持って国民の義務でした。
関東軍が開拓団に期待したのは反満抗日勢力を抑え、鉄道や重要な河川を攻撃から守り、とりわけ対ソ防衛のために軍の補助・兵站の役目を担わせることだったので、開拓団の半分がソ満国境地帯に配置されたのでした。
なぜ女性と子どもが取り残されたのか
敗戦の間際、「本土決戦」が叫ばれたころには、国境地帯に配備されていた関東軍の精鋭は南方戦線や日本本土へ移動していました。
残っていた部隊の大部分もソ連の参戦と同時に、当時日本の植民地だった「皇土朝鮮」を守るために密かに朝鮮半島の近くまで移っていて、開拓団は取り残されたのだそうです。開拓団を一緒に動かすと軍の行動を中国人やソ連側に知られる可能性があるというのが、開拓団の人たちを見捨てた理由で、その結果多くの開拓団が真っ先にソ連の攻撃を受けたのだということでした。
しかもその開拓団には働き盛りの男性はわずかしかいませんでした。なぜなら、1943年春以降、満州にいた関東軍の師団が次々と南方戦線へ移動を始め、その肩代わりとして「満蒙開拓青少年義勇軍」が送り出されました。
はじめは16歳~19歳、のちには14歳~19歳の兵役前の若者を集めた義勇軍が開拓団総戸数の76.8%をも占めていました。さらに配線直前には、全満州の開拓団から45歳までの男性は兵士として根こそぎ動員され、関東軍が南に移動した後の穴埋めとされました。
開拓団に残ったのは女性と子ども、高齢者ばかりでした。
敗戦時の混乱の中で・・・
鉄砲の弾が飛び交う中を逃げ惑う日々。ソ連兵の強姦に怯える日々。食べるものもなくなり栄養失調に陥り、感染症が蔓延し、一方では捕らえられ、中国人に人身売買され・・・。
日々たくさんの人々が死んでいく中で、何を選べたのか。
当時の中国にはお金を出して嫁を買ったり、将来妻にする目的で少女を買い取るといった習慣がありました。
生き延びるために、そうした中国人のもとに身を寄せるしかなかった多くの女性たちがいたという事実を、この本を通して改めて学びました。
手を打たなかった日本政府
侵略者の国の人間、加害国の人間が被害を与えた中国で生きるという苦難は並大抵のことではありませんでした。しかし日本政府は、彼女たちの窮状を知りながら手を差し伸べることはしませんでした。
それが「13歳に達していた」「だから判断能力があった」「残ったのは自分の意思」という、まったくご都合主義としか言えないような判断でした。
1972年日中国交正常化が実現した後も、残留女性が帰国するためのハードルは非常に高いものでした。1982年まで国費で配偶者を同伴して帰国できるのは男性だけであり、女性にはできませんでした。日本人男性はずっと「日本人」と考えられているのに、中国人と結婚していた彼女たちは、中国人の男性と結婚したのだから「日本人」ではなく「中国人」とみなされたのです。
さらにその子どもとなると1984年の国籍法の改正まで、男性残留邦人の子どもはいつ生まれても日本国籍が取得できるのに、女性残留邦人の二世は取得できませんでした。
家族を伴って帰国することができないという現実は、残留女性の帰国をさらに遅らせることになりました。
こうして60代70代になってようやく帰国できた女性も多く、その時にはすでに高齢者になっていて経済力が乏しく、日本語を忘れてしまっている女性も多く、二世・三世の日本社会への適応も困難にさせる・・・。そんな状況が生み出されてきたのでした。
女性と子どもが戦争の犠牲になるという現実に胸が痛みます。
帰国された方々はおそらく今はもう90歳を超えていて、中には100歳を超えた方もいらっしゃるのだろうと想像します。幸せに過ごされているようにと願うばかりです。