吉川市教育大綱の廃止を
27日から、吉川市の3月定例議会が始まりました。
1日には市長の施政方針に対する各会派の代表質問がおこなわれ、私は日本共産党を代表して質問をしました。お伝えしたいことはたくさんありますが、非常に印象的だった吉川市教育大綱についてまずはお知らせしたいと思います。
吉川市教育大綱は「家族を 郷土を 愛し 志を立て 凛として生きてゆく」という非常に観念的なものです。
※教育大綱とは
★ 地方公共団体の教育、学術及び文化の振興に関する総合的な施策につ いて、その目標や施策の根本となる方
針を定めるもの。
★ 教育基本法に基づき策定される国の教育振興基本計画における基本的 な方針を参酌して定めることとされて
ます。
★ 地方公共団体の長が、地域の実情に応じて大綱を策定す るもの。
★ 大綱の対象期間については、4年から5年程度を想定。
この教育大綱は学校の教室の黒板の上、子どもたちが最も目にしやすい場所に掲げられています。学校便りにも繰り返し掲載され、子どもたちに「家族を愛せ」「郷土を愛せ」と求め、更に志をたてることを求めています。
こうした教育大綱を批判する声は根強いものと認識しています。
私は代表質問で中原市長に、3期目を迎えるにあたってこの教育大綱を廃止するよう求めました。
誰もが自由に生きる権利を保障する憲法13条
廃止を求める根拠の一つは、憲法に違反しているのではないかと思うことです。
市議会議員になってから、憲法について学ぶ機会が本当に増えました。
憲法13条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」としています。
この13条は日本国憲法の核心とも言われ、「あなたはあなたのままでいい」「ほかの誰かの権利を脅かすのでない限り、あなたは自由に生きて良い」「あなたには愛される権利がある」という意味だそうです。
子どもに「家族・郷土を愛せ」「志を立てろ」「凛として生きろ」と学校教育の中で求めることは、憲法13条の考え方とは全く相いれないものだと思っています。
そして子どもを取り巻く環境はどうでしょうか。
深刻な子どもの貧困、虐待、ヤングケアラー、吉川市でも昨年の不登校の子どもの人数は124人で、子どもの数は減っているのに不登校は増えているという現実。家族を愛せなくて苦しんでいる子ども、愛さなきゃいけないと苦しむ子どももたくさんいるのではないでしょうか。
そういう状況の中で、家族を愛することを求める教育大綱は非常に問題があると考えています。
「見解の相違」
市長の答弁は「家族を大事にせず、地域を大事にせず、志も立てずに、どういう人間を育てたいと思っているのか、全くわからない。今まで不登校の子どもの再出発を支える中で、自分の為だけではなく誰かのために、もめにもめた家族の中でもその再生がその子のスタートになっているという姿を多く見ている。そうした子どもたちもいずれは自分が家族をつくる立場にある。強制するとか家族を大事にしなくてもいい、そういったレベルではない」というものでした。
確かに見解の相違で、私にも市長の言葉は全くわかりませんでした。
息子二人を育てる中で願ったことは、健康で物事をちゃんと考える人間になってほしいとは確かに思いました。何か壁にぶつかった時にどうしたら良いか、自分で考え、選択できる人になってほしいと思いました。そのために知識や経験、そしてたくさんの人に出会うことは大切だとは思いました。子育ての中で読み聞かせを大切にしたことは確かです。
でも愛する気持ちって自ずと生まれてくるもので、愛せと求めるものではないと思います。
「不登校の子どもたち、もめにもめた家族の中でもその再生がその子のスタートになっている姿」、これも私には理解できません。家庭の再生がその子の安定につながるということは理解できますが、もめにもめた家族がそんなに簡単に愛を取り戻せるとは思えません。
確か『I'tと呼ばれた子』(デイヴ・ペルザー著)に書かれていたことだったと思いますが、親からの虐待を受けて育った子が自分の体験を語れるようになるのは40代、50代、遅い人では60代になって初めて語れるようになる人もいるということです。
他人に語れるということは自己の経験を自分のこととして受け入れ、そうした辛い体験も含めて自分は自分で、その自分を生き抜こうと思えるようになる。そして自分に対してひどいことをした親を、それでも自分の親だと受け止めれるようになる・・・。愛せるか愛せないかは別にして。
そういうことじゃないかと思います。
家族だからこそ難しくて複雑で、簡単にはいかないものだと思います。
先日東部法律事務所主催の学習会、「家族って何?」に参加しました。
その中で根本弁護士は「『家族』という言葉に私たちが通常思い浮かべる、温かいもの、美しいものが全ての家族に当てはまるわけではない。自分が経験していない家族に思いを馳せるのはとても難しい。一言で「愛」「絆」は語れない」と話していました。
その通りだと思います。
自分が経験したことのない、とてつもない状況で暮らしている家族もいるということに思いを巡らせ、想像力を働かせるべきだと思います。
不登校だった子どもの貴重な発言
昨秋に参加したつばさスクール主催の「不登校セミナー」では、高校を中退してつばさスクールに入学した不登校経験者がこんな発言をしていました。
「学校は個性をつぶす場で、みんながやっていることをやると褒められる、みんなができないこと・自分だけできることをやると叱られる」ずっとそう感じていたそうです。そしてつばさスクールに入って考えが一変したそうです。
「つばさスクールでは、みんなと同じことができないなら無理してしなくてもいい、自分のできることをやればいいという考え方で、とても気持ちが楽になった」とも話してくれました。
もちろんこの言葉は決して家族の話をしたわけではありませんが、みんなに一様に同じことを求めることの危うさを物語っていると感じます。
不登校を支援するみなさんは口々に、繰り返し、「あなたはあなたのままでいい」と口にします。
不登校に関わる中で得た、私にとって貴重な学びです。
歴史に学ぶ
「家族を 郷土を 愛し 志を立て 凛として生きてゆく」との教育大綱を聞いて、「戦前ですか?」と反応する人も結構多いと感じます。
その反応を「なるほど」と納得するようになったのは、戦前の教育を学ぶようになってからのことでした。
先日、名古屋市博物館で開かれた企画展「戦前を生きる」に行ってきました。そこに展示された教科書の中に「良い日本人」という単元がありました。
「天皇陛下皇后陛下の恩徳を仰ぎ、・・・・忠君愛国心をさかんにし、・・・・・父母には孝行をつくし、先生を敬い、学校を愛し、友だちは仲良くして助け合い、近所の人には親切にすることが大切です。心をいつも正直にもって、内にいても外にいても行儀を良くし、・・・」と日本人としてどうあるべきかがとくとくと説かれているんです。
戦前の教科書ほど事細かに「あるべき姿」を説いてはいないけれど、吉川市教育大綱は同じような発想が根底にあると感じられてなりません。
そして「日本人だからこうあらねばならない」を押し付けてはいけない、人にはそれぞれ自由に生きる権利があり、その生き方が誰かの権利を妨害するのでない限り自由に生きることを保障しよう」、それは戦前・戦中にさんざん違う考えを持つ人間を警察権力と暴力で排除し、戦争反対と言えない社会の中で悲惨な戦争へと突き進み、多くの犠牲を生んだアジア・太平洋戦争の貴重な教訓だったと思います。
だからこそ憲法13条に書き込まれたのだと思います。
なぜ多くの人が「戦前ですか?」と口にするのか、戦前戦後の歴史を良く学ぶべきだと思います。
見解の相違で済ますことではないと思います。
他市の教育大綱・教育計画は?
近隣市の教育大綱を調べました。大綱を作っているのは草加市だけで、他は教育計画です。
三郷市はPDFになっていないようなのでスクリーンショット、他はPDFでご紹介します。