国葬の歴史

2022年07月30日

元社会科教員に参加していただき、毎週金曜日に開催している日本共産党吉川市議員団の学習会。
今日学んだのは「国葬」についてです。

1878年(明治12年)5月14日、馬車で私邸を出た大久保利通が6人組の士族に襲われ殺されました。
突然の死だったにも拘わらず、これまでにない大規模な葬儀が執り行われました。
葬儀を主導したのは、大久保の後継者として内務卿についた伊藤博文と西郷従道ら薩摩藩出身者。
彼らは政府の最高実力者であった大久保が不平士族の手にかかって命を落としたことで、反政府活動が活発化することを恐れました。
前年には西南戦争が起こりまた自由民権運動など、明治政府はこの時点ではまだ盤石ではなかったのです。
そこで伊藤たちが考えたのは、天皇が大久保=「巧臣」の死を悲しんでいる様子を大規模な葬儀という形で国内外に見せつけようとした・・・。
襲った士族たちは大久保の暗殺理由として、国会も開設せず民権を抑圧している、官吏の登用にコネが使われている、国を思う志士を排斥しているなどをあげていましたが、これらは完全に否定され、政府に逆らうものは天皇の意思に逆らうことだということを明確にしたのでした。
葬儀は一般の人も見学できるようにしたそうです。
こうして個人の葬儀を天皇の「特旨(特別な思し召し)」をもって行われる国家儀礼すなわち「国葬」で、個人の功績をゆるぎないものにするとともに、それによって政府の権力を強化しようとしたのでした。
「不当な暴力による死」→「国葬」→「政権の強化」という構図がつくられました。
大久保の葬儀は正式な国葬ではありませんでしたが、これ以来皇族以外でも「国家に偉功のある者」に対して国葬を行うこととされました。
誰が「国家に偉功ある者」なのかは時の政府が決めたのですから、「国葬」は個人の葬儀の政治利用と言えるかもしれません。大久保の死から5年経った1883年7月26日、岩倉具視の葬儀が日本初の国葬として行われました。
国家を挙げて巨費を投じて一人の人の死を悼む葬儀=国葬が形を成していきました。

1943年におこなわれた山本五十六(元帥海軍大将)の国葬では、東条英機首相が「一億国民の進むべき道はただ一つ、元帥の精神を継承して米英撃滅に邁進し、宸襟(天皇の心)を安んじなければならない」と国民に訴えました。
また母親たちには「元帥の意思は自分たちがお継するという気持ち、元帥こそが我が国民の鑑であることを子どもたちに説明する」ことが指示されたそうです。
国葬を通じて国民はみな、山本五十六の意思なるものを継いで戦争に協力することを強要されました。
国葬は国民を一つにまとめるために実施されました。
ですから、岸田首相の言うように「国葬」→「民主主義を守る」とはなりません。

なるほどなぁと思います。
安倍元首相の意思を継いで、国民の進むべき道はただ一つ、憲法改正・・・なんていうことになったらとんでもありません💦
安倍元首相の意思を継ぐなんて、国会でどれだけ嘘をついてもいいし、民主主義なんて破壊しても全然かまわないというのと同じです。
2億円もの国費を投じて「国葬」を行うというには、それなりに政府が狙う意図があるはずです。
やっぱり国葬、絶対反対。
改めて思います。

家に帰ったら、ウクライナの平和を願って植えたヒマワリがまた一つ開花していました。
真夏の日差しに映え、とてもきれいです。