『蚤と爆弾』

2024年10月17日

しもやけと731部隊の凍傷実験

子どもの頃、冬になるとしもやけがとてもひどくて、特に授業中などその足がとても痒くて痒くて、辛い日々を過ごしました。確か中学生のころ、患部を人肌程度のぬるま湯につけると良くなると知り、実行しました。
以後はしもやけができてもすぐに治せるようになり、また大人になると同時にしもやけに悩まされることはなくなりました。

『蚤と爆弾』(吉村昭著 文春文庫)は旧関東軍731部隊の詳細を描く歴史小説です。
どこまでが本当でどこがフィクションなのか、私にはわかりかねます。
が、非常に興味深い本でした。
何よりもショックだったのは、しもやけを人肌程度のぬるま湯につけるというのは731部隊が生きた人間を使って人体実験を繰り返す中で得た、研究の成果だったということでした。

当時北支戦線の兵士は凍傷に悩まされていて、石井四郎(作品の中では「曽根」とされています)が最初に取り組んだのは凍傷治療法でした。
真冬の夜中に、厚着をした俘虜の下半身を裸にして氷の上に座らせる。
凍傷ができると今度は室内に入れて、様々な薬を塗ったりお湯につけたりしながら治療法を探る。
しかし凍傷は悪化し、脚の骨が露出するまでとなり、俘虜は一人残らず死亡。
そういう実験の中で導き出された答えが、人肌程度のぬるま湯につけるということだったのです。

ショックでした。
6年前に東アジアの平和を考える会のみなさんと一緒に旧満州に行き、侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館にも行きました。凍傷実験の様子も見てきました。
でもその結果得られた答えが、まさか子どもの頃に私が実践していた対処法だったとは(@ ̄□ ̄@;)!!

細菌兵器の研究

侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館では、ペスト菌の細菌爆弾の研究の様子も見ました。
ペスト蚤を増やすためにねずみを大量に飼育していたり、ペスト蚤を生きたまま投下するために陶製の容器を開発したり。実用性を試すために広大な敷地に捕虜を磔にして、そこにペスト蚤の爆弾を投下し、捕虜が発症するかどうかを調べる・・・。
その時はただ「そんなことをしていたのか!」と思って見てきただけでしたが、本を読んで731部隊の研究は細菌兵器の研究という意味では世界的に見ても非常に優れたものであったことを知りました。
ただ「優れている」というのは言葉のあやで、731部隊の研究はそれだけ冷徹で惨酷なものだったのだとは思います。

風船爆弾

話は変わりますが以前デイサービスの管理者をしていた時、毎日ご利用していただいた利用者さんがいました。
非常に重い認知症で、今話したことをその瞬間に忘れてしまうので、一日に100回でも200回でも同じ話を繰り返し、しかもそれが週6回なので、週に1,000回以上同じ話を聞いていました。
その方が特に何度も繰り返して話したことのひとつに、風船爆弾の話がありました。
大学に入学したのに授業は全くなく、やったのは風船爆弾の風船作りだったというお話。
あんなもの、いくら作ったってアメリカまで飛んでいくはずがないといつも笑っていました。
でも、実はそのうちの何個かはアメリカに飛んで行って山火事などを起こしたということは少し前から知っていました。
その発想がどこから来たかという話。
戦況がいよいよ厳しくなってきたころ、ナチスドイツとソ連とのたたかいでソ連が優勢となり、ドイツに勝利したソ連が今度は日本への攻撃を始めるのではないか、ソ満国境を超えて満州に侵攻してくるのではないかとの不安が高まっていきました。
そんな時にソ連に向けて風船爆弾でペスト・チフス・コレラ菌などを送り、感染症を広げてソ連を戦おうにも戦えない状態にしてしまおうという考えが持ち上がり、731部隊が風船爆弾の研究をしていたのでした。
風船の気嚢には雁皮紙、コンニャクを原料とした特殊な糊で接着するのが最適であるという結論が出ていたのですが、日本陸軍はゴム引き絹布の気嚢を使ったということです。
ゴム引き絹布の方が雁皮紙よりも優れていると判断されたようですが、ゴム引き絹布の風船爆弾はわずか3個しかアメリカ大陸には届かず、雁皮紙のものはいくつも届いていて、アメリカの研究で雁皮紙の方がゴム引き絹布よりも水素を漏らさないという点ではるかに優れているということが分かったそうです。

石井四郎という人

731部隊を率いた石井四郎は京都帝国大学医学部の出身で、軍医を目指しました。石井四郎はとても優れた頭脳を持っていたのに、東京帝国大学医学部の出身者が「東大出身」というだけで昇進をしていくことに忸怩たる思いを抱いていました。
そういう中で「細菌戦用兵器の開発」が石井四郎の心を惹き、その研究が彼の居場所をつくり、そして彼は非常に優秀だった!!!
それが731部隊の恐るべき人体実験へと繋がっていったということが、とてもよく分かりました。

どこまでが事実なのかはわかりませんが、石井四郎の母親も非常に頭脳の優れた人だったとのこと。
夫婦の折り合いは悪く、母親は石井四郎には何の未練も残さずに家を出て行き、父親は再婚。新たな子どもが生まれると石井四郎の居場所はなくなり、子どものいない親戚の家に預けられる・・・。
非常に孤独な子ども時代であったこと。
京都大学医学部を卒業した後一般の医師への道ではなく軍医をめざしたのは、養親に経済的な負担をかけたくなかったからとも書かれています。

もしも生まれた時代が違っていたら、何かもっと人類の発展や幸せのためにその優れた頭脳を発揮できたのかもしれません。
本当に残念なことだと思います。

731部隊の遺構

5年前、私が旧満州、とりわけ731部隊罪証記念館に行こうと思ったのは731部隊の遺構、その象徴のようなボイラーの写真を見たからでした。
終戦間際にソ連に研究の詳細を把握されることのないように、731部隊の施設は自らの手によって破壊されました。今残っているのは実験用ボイラー室、死体焼却炉、実験用ネズミ飼育室、凍傷実験室、細菌爆弾工場の遺構です。
本の中では、施設を破壊していく様子が詳細に記されています。

石井四郎とその側近はいち早く研究成果を日本に持ち帰る。
石井四郎が飛び立つと同時に隊員たちがたたき起こされ、施設の破壊活動が始まる。
まずは陶器製爆弾の破壊、続いてペスト蚤の処分。
そして囚人たちを青酸カリで殺害し、中庭に集めて火をつけて焼却。
雨が降っていた上に慌てていたので遺体は生焼け。
その遺体の肉片や内臓はもう一度焼却して、骨は粉々に砕く。
最後に建物にガソリンをまいて火をつけ、後は逃走。
自らの罪を知りながらその罪の意識に蓋をして、戦犯に問われないようにひたすら口をつぐんで生きていく。

ボイラーの写真を見たときに「ここに行かなくては」となぜ思ったのか、そんなことが言語化されたような、救いがないのに救いがある、私にとってはそんな一冊でした。