『記者狙撃 ベトナム戦争とウクライナ』

2024年10月21日

今日は10月21日、国際反戦Day。明日は10月22日、おあしす多目的ホールでベトナム枯葉剤被害者支援 ベトナム アンサンブル チャリティコンサートです。
ぜひぜひ、ご来場ください。

中村梧郎さんの『母は枯葉剤を浴びた』は80年代に読みましたが、ベトナム戦争のことをほとんど知らない自分に気が付き、今『記者狙撃 ベトナム戦争とウクライナ』(中村梧郎著 花伝社)を読んでいます。
まだ途中ですが、全然知らなかったことがたくさん書かれていました。

19世紀フランスのナポレオン・ボナパルト3世以来、ベトナムはフランスの植民地でした。
1940年、パリがナチス・ドイツの占領され、フランス政府は弱体化。その隙にかつての大日本帝国がベトナムに侵攻。ベトナムはフランスと日本から支配されることになりました。
しかし1945年に日本は敗戦。重光葵外務大臣がミズーリ号で降伏文書に署名をした9月2日に、ベトナムは独立を宣言。その宣言には「我々はフランスからではなく、日本から独立を勝ち取った」と記されているとのこと。

ナチス・ドイツの降伏により息を吹き返したフランスは、再度ベトナムの植民地支配を試みる。
ベトミンの抵抗は強く、苦戦するフランスをアメリカが協力に支援。フランスが撤退すると、今度はアメリカが侵略を試みる。

私は昔、ベトナム戦争は南北ベトナムとアメリカの三つ巴の戦争と学んだ記憶があります。
でも実は南ベトナム共和国というのはアメリカがつくった傀儡国家であり、ベトナム戦争はアメリカの侵略戦争だったということがよく分かりました。
ニクソンは米軍に対して、ベトナムへの原爆投下を提案していたとか、さすがに原爆は投下できなかったけれどクラスター爆弾や黄リン爆弾、そして枯葉剤という非人道的な武器を使ったことは許しがたい事実です。

私が全然知らなかったのは、高野功という赤旗記者の存在です。
1943年に神戸で生まれ、アンリツ電気KKに入社後日本共産党に入党。1967~71年、共産党に推薦された4人の学生とともにハノイ総合大学でベトナム語を学ぶ。1973年~ハノイ駐在の赤旗特派員。
「ベトナム人?」と言われるほどのベトナム語の達人。

当時、現地に入り込んで報道することができたのは高野功氏と中村梧郎さんくらいで、二人の発信は非常に重視されていたそうです。
特に高野功氏の車にはベトナム外務省新聞局の案内者・世話役・護衛の武装兵士が付くほどの賓客扱い。中村梧郎さんの車には日本語を話せる記者と総務部の職員のみで、護衛はなかったとのこと。
高野氏がベトナムにとってどれほど大切な存在だったかがよく分かります。

1979年、アメリカが撤退した後に今度は中国が侵攻し、中越戦争に。
高野氏は中国に狙撃され、亡くなりました。中村梧郎さんと高野功氏の車は並んで走っていて、中村梧郎さんの車も狙撃されましたが、中村さんは無事でした。
生き残ってしまった苦しみを抱えながら、中村梧郎さんはその後も報道の仕事を続けました。

高野氏の墓碑は故郷の蔵王山のふもとにあり、「高野功ここに眠る」と当時の共産党の委員長 野坂参三さんの揮毫。
ベトナム、ランソンには30メートルにも及ぶ高野さんの慰霊碑が建立されているそうです。

桜を見る会や裏金問題などをスクープしたのはしんぶん赤旗で、その取材力は今、高く評価されています。
でも今になって取材力が高くなったということでは絶対になく、しんぶん赤旗の取材力というのはもともと優れていて、高野功さんは元祖的な存在なのだと知りました。